「時間はいくらでもある」というのは、おちいりやすい錯覚
はじめに〜「時間はいくらでもある」と思いがちだが
普段、公認会計士や税理士として、企業のお金の流れとか、取引とか、仕事を観察しています。
一方、昨今の働き方改革の進展、社会のDX(デジタルトランスフォーメーション)化、掃除ロボットや自動食洗機など家庭への最新家電の導入による家事の時短、
さらに、タイパ(”タムパ“ともいう。タイムパフォーマンスのこと。時間あたりの生産性や満足度の高さを意味する)という言葉そのものや考え方の浸透により、
「時間」の重要性は高まる一方であることを、常々感じています。
そもそも、時間というものは、ずっと前から経営資源の一つとされてきました(その他の経営資源としては、ヒト、モノ、カネ、情報)が、今もなお、
「時間はいくらでもある」
と、捉えがちな傾向があるのではないでしょうか?
(「納期」というタイムリミットは意識していても、その納期までの時間は「いくらでもある」と捉えてしまいがちな傾向は、あると思っています)
「時間はいくらでもある」という感覚は、とても陥りやすい錯覚です。
実際には、「時間には制限がある」のです。
石油や天然ガスなどの化石燃料や、金属鉱物資源のように、得られる量に制限があるという点で、時間も希少資源です。
時間の創出には制限があることを意識すべき
時間は希少資源と書きましたが、そもそも、1日は誰にとっても24時間しかなく、必要な睡眠時間を除くならば、1日は17時間しかありません(必要睡眠時間7時間の場合)。
食事や入浴や休憩など、円滑な生活に必要な時間を確保するならば、1日は17時間よりももっと短くなります。
企業活動=仕事に割ける時間の創出には、制限があるのです。
もし、この制限を超えて時間を創出しようとすると、犠牲になるものが生じます。時間の創出とトレードオフの関係にあるものといえますが、それは、健康と幸福です。健康は、肉体面とメンタル面の両方です。
つい最近まで(もしかしたら現在でも企業によっては)、制限を超えて時間を創出することによる心身の健康と幸福の犠牲については、考慮されてこなかったように思えます。
必要な睡眠時間や休息時間を削って仕事に充てれば、心身の健康を損なうリスクが高まりますし、心身の健康を損なえば幸福を感じにくくなってしまうと言えます(ここではエビデンスは記述できませんが、経験則からご理解いただけるものと思います)。
仕事に際限なく時間を投入すると、健康と幸福を損なうことにより、かえって生産性が下がってしまうということは、容易に考えられます。
一方で、制限された仕事への投入時間ではあっても、その時間の質を高めることにより、生産性を極限まで高めることも可能なはずです。
時間の質を高めることの前提として、心身の健康と幸福があることは、いうまでもありません。幸福には、高いモチベーションとか、やりがいの大きさが含まれます。
今後、時間の質を損なうことなく、逆にいかに高めるかという、研究や実践がますます盛んになっていくでしょう。私も日々試行錯誤し、ブログなどの媒体を通じて発信したいと思っています。
おわりに〜会計士や税理士みたいに、時間士という職業が今後登場すると思われる
企業の生産性を高めるにも、個人の幸福を考える上でも、時間は欠かせない研究対象です。
公認会計士や税理士は、お金(貨幣)をメディア(媒体)とし、企業活動を観察、分析、検証、(決算書の表示や課税関係の)判断をしますが、
時間が経営資源であることを考えると、今後は、企業活動の時間の使われ方を観察、分析、検証、判断をする「時間士」という職業が登場しそうです。私も興味ある分野ですので、強い関心を持って動向をみたいです。
近年、企業のディスクロージャーにおいて、サステナビリティ報告が注目されていますが、サステナビリティ(持続可能性)は、気候変動など自然環境のみならず、人間への、人権への配慮を含んでいます。
この点、人間にとっての持続可能な働き方の実現も大変重要なのですが、その重要なファクターとなるのは、間違いなく「時間」です。
なお、時間への興味を強めたきっかけの一つに、逗子への移住がありました。
逗子には、自然環境と社会環境と人文環境(カルチャー)の上質さがありますが、上質な時間=人生を過ごそうとする人たちが集まって街をつくっています。
そのような逗子だからこそ、時間のことについて、より深く、より真剣に、より大切に、考えたくなってきた次第です。