自分をいかに出すかが、これからの時代の勝負どころ
はじめに:自分をさらけ出す社会が始まった
ブログをほぼ毎日書いていますが、まだまだ、自分を十分にさらけ出せていないと感じています。また、こんなこと書いていいかなぁ、書いたら他人からとやかく言われないかなぁと不安になったり、億劫になったりもします。特に私は、小中学校でいじめられた経験が今なおトラウマになっていて、萎縮しがちなところがあります。
もちろん、自分が秘密にしておきたいことは、秘密にすべきです。そこまで自分をさらけ出す必要もないと思っています。
しかし、自分で商売したり、自分で仕事を創り出すためには、嫌でも自分をさらけ出す必要があります。そうしなければ、商売の特徴や仕事の内容やポリシーがよく分からず、取引すべきか、購入すべきか、十分に判断できないからです。
それと、自分をうまくさらけ出すことができれば、自分に合った人がお客様になったり、従業員として共に働いてくださる可能性が高まると言えます。「類は友を呼ぶ」です。
会計の世界でもディスクロージャー、そもそも企業の経営実態をさらけ出すものです。企業にとってさらけ出すことは必須です。
これまでは自分をさらけ出さずに「控えめに」「奥ゆかしく」というのが日本の倫理と美意識だったと感じますが、個人の影響力の増大と経済のグローバル化により、そうした倫理と美意識の通用しない社会になってきています。現代の経済は、自己主張、さらけ出すという倫理と美意識で動きはじめています。
私のように、トラウマに囚われてしまって自分を(十分に)さらけ出せない人もいると思います。しかし、自分の真に望む成果を手に入れるために、なんとか、自分をさらけ出していきましょう。
言語で自分を出す
SNS、ブログ、ホームページのようなネット媒体、Zineやフライヤーやチラシのような紙媒体で、言葉で(写真や動画も時には組み合わせて)自分の言いたいこと、思ったこと、主張したいこと、考えたことを「アウトプット」します。
最初は、なかなか言葉が浮かばなかったり、言葉が浮かんでも「この言葉で本当にいいのかなあ」と思うことも、ままあります。
私の場合、ブログを書く時、それほど慎重に推敲をしないのですが、ざっと読んで「かなり変だな」と思った場合のみ、書き直し(表現を変え)たりします。
それは、ちょっとくらい変であれば、それはそれでいいかなあと、割り切る、自分を許しているということでもあります。
また、言葉の意味に自信が持てなかったら、googleや電子辞書で検索して意味を調ベてから書くようにしています。
書く材料(ネタ)を、書いている時以外の時間に思いついた時は、EvernoteやiPhoneのメモ帳に、音声入力したりフリック入力したりします。後々これを膨らませて書けることがあります。
正直、公認会計士や税理士や経営者の集まり(異業種交流会など)に行くと特に、皆、才気溢れて頭の回転が早いので、自分は頭が悪いと思ってしまう癖がついてしまっていますが(確かに、こうした方々は日常的に頭を使っているので並以上の頭脳を持っています)、
他人と頭脳のスペックを比べるまでもなく、人間の脳はそもそも大きな能力を持っています。なので、脳を使う「言語化スキル」はトレーニング次第で上がると思っています。
頭で浮かんだワードは、とにかく吐き出す(アウトプットする)ことが、書く能力(だけでなく話す能力)の向上にとって大事ではないかと考えます。
非言語で自分を出す
Instagramのように、写真で共感を集めるSNSが主流になっています。人によってはYoutuberとなって、動画で共感を集めている人もいるでしょう。
言語だけで自分自身を全て表現できるとは限りませんし、言語以外の(非言語の)表現方法、例えば写真や動画、絵画、音楽、彫刻などで表現することも重要になってきます。
さらには、毎日着る服や、毎日使う文房具やパソコン、カバンも、自己表現のツールと言えます。ファッションを軽視する人もいますが、私はファッションはコミュニケーションの手段として重要視しています。
「一流の仕事人が身につけたり使っているものを身につけたり、使ったりすれば、自己の力も増す」と言われます。自分よりレベルが高く、自分もそうありたいなと思うひとのファッションや身につけているもの、使っているものを研究したり試してみるのも手です。
私は今のところ受講していませんが、写真や動画の撮り方、見せ方(魅せ方)を学べる講座やセミナーも増えています。そうしたものを受けて、技を磨くことも必要でしょう。
私の場合、Instagramを趣味のカフェ巡りで、カフェやコーヒー、スイーツの写真をアップするのに使っています。気に入ったものをどうアーティスティックに撮影するか、自然と工夫してみたくなります。撮影したいものを撮影するのも、うまく自分を表現する手段のように思います。
こんなこと言ったり表現したりしたら、バカにされないかなあ、という不安を持つ人へ
目次
フィードバックを受けるのはリスクだが、そこはリスクを取る
表現することは、そのフィードバックを受けることといえます。どのようなフィードバックを受けられるのかは、ある程度事前に予測できたとしても、その時にならないと分からないものも多いです。
そもそも、サラリーマンとして仕事をしていても、独立して自分で仕事を創っても、リスクは必ず取ることになります。リスクを取ることからは逃げられません。
しかしながら、フィードバックが過重な負担とならないよう工夫するのも大事だと思っています。
私のブログにはコメント欄を付していませんが、どうしても私の場合、コメント欄に返信をしなければと思ってしまい、多くのコメントに返信しきれないからです。ブログを業としている訳でもありませんから、コメント返しに労力を割くのもどうかと思い、コメント欄を設けていないわけです。
ブログの目的は、自分自身のプレゼンと、何らかの役に立つ情報の提供のためであって、フィードバックを交換することを目的としていないのです。
批判や悪口であっても、何とかまずは聞く
フィードバックの内容は、聞こえの良いものばかりではありません。ここは、筋トレのごとく、訓練の領域になってきますが、批判や悪口であっても、何とかまずは聞いてみましょう。我慢しすぎる必要はないのですが、少し忍耐しましょう。役に立つ建設的な批判を聞き取るためです。
聞いた上で一旦は受け止め、真摯なものは熟慮し、そうでないものは流し去る。これも訓練。
悪口であれば、すかさず流し去ります。聞き入れる必要はありませんし、聞き入れたら毒になります。概ね、悪口というのは、真剣に考えた上での発言ではないことが多いです。
真摯な批判であれば、一度でいいので、その意味するところを考えます。その結果、自分にとってプラスになると判断できれば、取り入れて、そうでなければ、流し去ります。ああ、あの時こういう風に言っていた人がいたけど、結局自分はこう思ったから自分の思うとおりにした、ということでいいのです。
異文化に飛び込んでそこでさらけ出してみる
どうしてもさらけ出すのが怖い、というのであれば、今いる場所とは違う場所で、すなわち文化の異なるところでさらけ出してみるといいと思います。
自分を知っている人、自分に対して先入観を持っている人がいません。そういう環境に飛び込んで、自分をさらけ出してみます。
フィードバックとしてこれまでに耳に入ったようなことも聞くかもしれませんが、逆に、これまで聞いたこともないような新たな発見が得られる可能性も大きいといえます。
何よりも、自分を知っている人がいないか、それほど多くないというのも、安心感になると思います。
もっというと、子どもの文化圏と大人の文化圏は異なるといえます。子どもは大人に比べると忙しくなないので、いじめることに執着すると思われますが、まともな大人であれば、そのような執着を示す暇はないはずです。(他人の失言をいつまでも取り上げる執拗な大人もいますが・・・)昔のことはそれほど長くは覚えていないものです。そう考えてば、さらけ出してみても損害は大きくはないと言えるのではないでしょうか。
プロ野球の選手は、チャンスで三振した時などに、大観衆が一斉に漏らす「ハァ〜」というため息に囚われていないからこそ、淡々と活躍できる
プロ野球の選手は、様々な経験と訓練の結果、野次やため息に囚われないで、日々の試合を淡々と、なおかつファンが喜ぶような良いプレイをしたいと心がけているからこそ、成果を出しているといえます。これは、飲みの席で話題になったものですが、プロ野球の選手に限らず、仕事をする人なら誰でも当てはまることのように思います。経験と訓練を重ねて、ネガティブな影響を受けないで自分を表現していくということです。
終わりに:全ては実験。実験しなければ何も分からない。やった者勝ち。
最近よく思うことに「天から与えられた人生は、全て実験」ではないかというのがあります。何事もやってみないと、はじめてみないと分かりません。実験しないで後悔するよりも、実験をしてみたほうが、案外楽しかったり、スッキリしたり、仮に成果が芳しくなかったとしても、何らかの「やったなあ」という達成感があると思います。
いきなり大きなことはできないとしても、まずは、1ミリでも、自分をさらけ出してみたほうがお得な気がします。
(新百合ヶ丘スターバックスで)
(本投稿の執筆時間 80分)